友人の起業報告を見た沙織は、スマホを二度見した。「年収三千万円を達成しました」。少し前まで一緒に弁当の値段を比べていた人が、急に遠い存在に見えた。自分だけ、まだスーパーの値引き時間を気にしている。

後日会って話を聞くと、三千万円は会社の売上だった。「自分の会社だから、まあ自分の収入みたいなもの」。友人は悪気なく言う。しかし沙織の頭の中では、三千万円が会社の口座から、本人の財布へ勝手にジャンプしていた。

この物語の人物と数字は架空です。経営者が会社を持っていることと、会社の売上がすべて経営者個人の年収になることは違います。会社の業績を紹介する言葉が、いつの間にか個人の豊かさの証拠になっていないか、一度立ち止まってみましょう。

会社の口座と、社長の財布を一つにしない

友人の会社は、商品を仕入れて売っている。売上が三千万円なら、商品代、配送、利用するサービス、人件費など、仕事に必要な費用もそこから負担する。売上全額を本人の生活費として使えば、次の仕入れができなくなる可能性がある。

会社から経営者本人へ報酬を払うなら、その報酬は会社の売上とは別の数字だ。経営者個人にほかの収入がある場合もあり、個人の年間の収入を確認するなら、何を受け取った金額なのかを見なければならない。

会社の利益も、役員報酬などと同じものではない。さらに、会社が税や今後の運営に備えて持つお金まで、いつでも個人が自由に使える小遣いというわけではない。会社名義の口座が手元のアプリで見られるからといって、中のお金の役割まで全部個人用になるわけではないのだ。

沙織は、会社の社長を「会社にあるお金を好きに使える人」だと思っていた。しかし会社の仕組みを聞くと、お金が多く通るほど、払う先や用途の管理も増えることが分かった。残高を見て自由を想像する前に、そのお金に付いている行き先を見たい。

売上三千万円から、いきなり三千万円の暮らしは始まらない

単純な架空の例を考える。会社の年間売上が三千万円で、商品の原価が千八百万円、経営者本人の報酬を除く運営費などが六百万円なら、ここまでで残るのは六百万円だ。

そこから仮に役員報酬を四百八十万円負担すると、会社に残る額は百二十万円になる。この説明では比較を簡単にするため、会社負担の保険料や税などを省いている。実際には追加の確認が必要で、この数字がそのまま最終利益や手元資金になるわけではない。

少なくとも、この設定で本人が受け取る報酬は三千万円ではない。売上三千万円という数字と、年間四百八十万円の報酬は、同じ会社の話として両立する。大きな数字が一つ登場したから、それ以外の数字も同じ大きさだとは限らないのだ。

反対に、売上が同じでも、費用の構造や本人の報酬が違えば結果は変わる。この例を業界の平均と思う必要はない。会社の数字から本人の年収を知るには、もう一段、何をどこへ払ったかの説明が要るということだ。

給与の年収と、手取りもまだ違う

では、本人が「役員報酬を年間四百八十万円受け取っています」と言えば、その全額を自由に使えるのか。ここにも、税などを引く前の金額と、口座へ入る金額の違いがある。会社員の給与明細でも見慣れているはずの区別だ。

給与についていう年収、税の計算に使う給与所得、実際の振込額は、同じ数字ではない。国税庁の説明でも、給与所得は給与等の収入金額から給与所得控除額を差し引いて計算するものとされる。控除があることは、その分だけ現金が別に振り込まれるという意味でもない。

税や保険料は人の条件によって変わるため、「年収がいくらなら必ず手取りはいくら」と雑に当てはめないほうがよい。違う数字を比べるときは、せめて引く前と引いた後のどちらかを合わせたい。

沙織は、自分については手取りの少なさを思い出し、他人については会社の売上の大きさを思い浮かべていた。比較の設定を自分だけ不利にして落ち込んでいたのである。そんな大会なら、気分よく勝てる相手はなかなか見つからない。

個人事業なら、全部一人の話だから同じになる?

会社を作らず個人で仕事をする場合でも、売上と儲けの区別は必要だ。事業の売上から必要な経費を差し引く計算があり、その後の税や生活費、事業を続けるための資金も考える。法人がないから、売れた金額が全部使えるわけではない。

一方、法人と個人事業では、本人へお金を渡す扱いや会計、税の仕組みが同じではない。片方の説明をそのままもう片方へ移すと、かえって分かりにくくなる。発信者がどんな形で事業をしているかも、数字を読む前提になる。

「社長」「経営者」「フリーランス」という肩書は、収入の計算方法をすべて説明する言葉ではない。何人で、どんな事業をし、どの数字を報告しているのかを知りたい。

沙織は、肩書を聞いた瞬間に収入を想像するのをやめた。同じ経営者でも、生活に使えるお金、使っている時間、将来へ回している資金は違う。肩書は名札として便利だが、家計簿として読むと情報が足りない。

会社のお金で買った物は、豊かな暮らしの証拠になるか

友人の投稿には、きれいな机や立派な会議室も写っていた。仕事のために使う物かもしれないし、撮影した場所が自分の所有物とは限らない。写真から個人の所得まで推定するには、飛び越えている情報が多い。

経費で買えば無料、という言い方にも気を付けたい。事業に必要な費用として扱うことと、お金を払っていないことは違う。適切な会計や税の処理があるとしても、支出そのものが魔法のようになくなるわけではない。

だから、目立つ設備や華やかな写真だけを見て、「この方法なら自分も同じ生活になる」と考えないほうがよい。仕事のための支出を、個人が余裕を持って買った私物と同じように受け取っていないかを確認したい。

この点は高級車の写真と成功の証明で、会社やグループの範囲が変わる数字はグループ年商と自分の財布で、それぞれ別の角度から考えている。

事業の数字を公表するときも、誤解が生まれにくい名前を付けたい。「当社の年間売上」「個人で受け取る報酬」のように対象を明確にすれば、同じ金額でも伝わる意味が変わる。大きく見せる言葉を選ぶより、見る人が同じ理解にたどり着ける言葉を選ぶほうが、長い関係には役立つ。

個人の年収を当てるより、商売の条件を聞く

友人の暮らしを詮索したいわけではないなら、個人の給与の細目まで聞く必要はない。自分が事業の参考にするために必要なのは、何を売り、どんな費用を負担し、どれくらいの資金と仕事で続けているかという条件だ。

「自分も同じ年収を目指せます」という勧誘なら、何を年収と呼び、売上や利益とどう違うかを確認したい。数字の定義が変わるたびに話が有利になるなら、判断材料としてはいったん保留するのが自然だ。

言葉の曖昧さは月収百万円の「収」は何ですかへ、売上と原価の基本は年商千八百万円でも損をする話へ。自分で収支を見直すときは、売上と利益を区別して記録する記事も参考になる。

アフィリエイトの事業を考える際も、広告収入の大きさだけを見ず、制作や集客、外注などの費用を含めて検討したい。収益が発生する仕組みが分かると、会社のお金と自分の生活の間に必要な計算も考えやすくなる。

沙織は、友人と別れた後、自分の給与明細を見直した。会社の売上と競わせるのはやめた。三千万円という数字を小さくしたのではない。何の数字かを、正しい場所へ戻しただけだった。

用語の確認:国税庁・給与所得、国税庁・所得の区分。本文の収支は仕組みを説明する簡略化した架空例で、税額の試算ではありません。

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